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魔術師

監督:イングマールベルイマン 主演:マックスフォンシドー

 

 イングマールベルイマンを5本ほど続けてみた。

 最初に「夏の遊び」でベルイマンって面白いなってなり、次に「処女の泉」でベルイマンってすごいなっていうのがさらに膨らみ、「魔術師」でこういうのも作るのかってなり、「冬の光」でやっぱりすごいなってなり、最後に「野いちご」で、ん?ってなった。

 ベルイマンは神の沈黙をテーマにしているとかよくいうけど、全然違うと思う。ベルイマンは神が本当にいるのか、それを知りたかったんだ。それを表現の中で追求していったんだと思う。

 だから、魔術師という作品の中で、普通のマジシャンの敗北によって神が負けた、ベルイマンは神を信じていないなんて思ったらそれこそベルイマンに失礼だ。

 そもそもこの作品の中で神と科学は戦っていない、この作品の中の魔術師は単なるマジシャンだ。この作品の中で大切なのは魔術師もべつに神の奇跡などはなから起こそうとしてはいないというところであり、それに対して科学を信じているという警察の人たちはまんまとその魔術に引っかかってしまうところにある。

 そして魔術師は色々な地に足のついた事件を起こして騙すが、種を暴かれ、もう終わりだとなった時に、国王に呼ばれてこの世的に成功し、突然立場が逆転する。彼らがさった後の道には一抹の虚しさが漂う。

 ベルイマンの映画に出てくる人間はみんな正直もので、嘘をつかず、相手に容赦しない。ベルイマンの描く悪い人というのは人間の原罪、3大欲求、を悪気なく持ち、ふりかざす。それは神を知らなかったり、科学を信じていたりするから、今ではごくごく普通の人達だ。

 そしてこの映画の中の魔術師もみんなと同じ生業としての魔術師なのだ。それは不思議な力という、神や、神聖な存在を抜きにしては語ることのできない力を飯の種として生きている人間達であり、神父と同じようなものとして描かれていると思われる。ここには冬の光と同じ構図が伺える、神を信じていない人間がこういう力を扱うことの愚かさがある。

 ベルイマンは神を信じていたか、ということに対して誰も答えを出すことはできないだろう(すでに亡くなっているから)。だが、あえて僕は信じていたのではないかと言いたい。信じているからこそ、ここまで神がいるのかどうかということについて考え続け、表現し続けることができたとしか思えない。それは表現することの難しさや、大変さをすこしでも知っていなければわからないことかもしれない。ここまでの情熱をかけて人生をかけて、神を追求する、命をかけてそういう表現をするということ自体が、神を信じている人間しかできないことだと思うからだ。