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冬の光と愛のむきだし

監督:イングマール・ベルイマン 主演:グンナール・ビョルンストランド

神を信じていない人間が神の代弁者になることの罪とそれによって起きる悲劇。

それを最後まで描き切った。

園子温の愛のむき出しは表面だけ浅いパクり方をして、逆に監督が自らこの映画の主人公と同じことをしている。(意図的なのか、この映画の本質を捉えられなかったからなのかは不明)

この作品は神のことを真摯に追求し続けていたベルイマンだから描くことが許されているようなもので、一貫して神のことを知りたい、神とはなんなのか、神の全てを知りたい、神と人間の本当の関係を知りたい、それを表現で真実にたどり着きたい、という欲求を常に作品の中のテーマとして描き続けてきたベルイマンほどの情熱や欲求がない人間が真似をすると愛のむき出しになる。

その構図はわかりやすくこの冬の光のテーマを浮き彫りにしている。

なぜなら主人公の神父は神に対して懐疑的な態度で臨んでいて、その神に対して信じないという結論に至っているのにもかかわらず、救いを欲していたジョナスに対して人生の師として経験を語るという態度を取ってしまったが故に彼は絶望感を増幅させ自殺するという悲劇が起きたと思う。彼がしっかりと神と向き合う神父であったならジョナスは自殺しなかったであろう。

 愛のむき出しは園子温が全く神について向き合っている人間ではないにもかかわらず神について騙る映画になっている。しかも明らかに話のモチーフには冬の光がある。これは映画史に残る皮肉な結果だ。なぜならこの映画をモチーフとして作っているつもりになっている園子温は、冬の光の本当のテーマは、神を間違って認識し、それを間違ったまま騙ることによって起きてしまった悲劇である。そこに気づかず、表面的な神に対する不信心だけを捉え真似した気になっているというところで完全に監督そのものがこの映画のモチーフそのものになってしまったのであると思う。

 だが、それは園子温監督だけが犯してしまっている間違いではなく、この世の中、今の映画業界、映画を見る人たち、すべての人が間違えて認識してしまっていることではないだろうか。

 イングマールベルイマンの映画は神が本当に存在するのかというテーマを常に掲げているが、その懐疑の中には善悪の倫理の前提として、神を信じているかいないかと言うことが常に問いかけられている。神を信じていない現代人には到底理解の及ばない深みがあるのだ。道徳とは神を信じている人間が初めて手に入れることのできるもので、神を信じない人間はいくら道徳を説いたところで説得力などかけらほどもない、ということをベルイマンは教えてくれた。