ジャニス(映画)
2022/8/26に自分のアルバムが完成したので、音楽を作っている人の話を聞きたくなって、前から気になっていたジャニスジョプリンのドキュメンタリーを観た。
ジャニスジョプリンを知るきっかけとなったのは、ウッドストックというドキュメンタリー映画だ。こちらも、ライブ映像で、ヒッピーの若者たちが開催する大規模な3日間に渡るライブを全体の雰囲気も含めた映像が見れる。
ウッドストックの映像を見てすごいなと思ったのは、音楽というものが、若者にとって(時代にとってともいう)まさに人生の中心にあるといった感じが、全般にわたって伝わってくるところだ。彼らのファッションという表面的なところから、会場では企画的に瞑想をしていて、非常に意識が高いなと思わずにいられない。音楽が全てをいい方向へ導いてくれると心から信じているのだととてもよくわかる。私も思わず当時に生まれたらさぞかし楽しいだろうと思った。
さて、そこに現れるのがジャニスジョプリンだった。ライブ映像というのは私は好きなアーティストのものを見るのは好きなんだが、どうにもいろんなものがたくさん入っていると、あまり集中して聴く気にならない。だがその中でもいくつかきになるアーティストをチェックしていたところ、ジャニスジョプリンはなんだか他とは一線をかくしているような感じがした。俗に言う「なんか、カッコいい」というやつである。なんだこの、他のバンドに比べても圧倒的な声量、そして、気迫、物悲しい感じ、ふざけていない感じ。なにより、女性なのに、どっしりとした感じである。唯一無二のカッコよさ。どうやら私はたちどころにファンになっていたらしい。
ジャニスのドキュメンタリーを見て、わかった1番のことは、彼女は物作りの上で本当に器の大きな女性だったんだなということである。summertimeのレコーディングの最中、口論になるギタリストとか、プロデューサーとジャニスたち。しかし、彼女は誰よりも客観的に、そして、的確に物事を捉えているとその発言と振る舞いから感じた。それは、アルバムを作り終えて感じたことだが、まさにジャニスが言っていることはその通りと思った(俺が言うと偉そうではあるけど)。ジャニスは、コード進行で揉めるギタリストとプロデューサーの間に挟まれて、プロデューサーが主導権を握ろうとする中、ハッキリと「コード進行は合っていればそれでいいわ、お客さんはわからないんだから」といい、しかも彼らの間を壊さないような気遣いを見せた。それも可愛らしく。これを見た瞬間、彼女は本当に器がデカく、天性のアーティストなんだな、と思ったのだ。ジャニスの言っていることは、ビートルズの不完全性による、完全をビートルズのメンバーと同じように、感覚で行っているのであると感じた。感想としては、彼女の良い面がとてもよく描かれた素晴らしいドキュメンタリーであった。短い生涯だから、なにか、この世にひきづられ過ぎるところがあるのは承知の上で、とても感性的に生きるということを見せてくれたのではないだろうか。そして、危うい方向に向かっていた音楽の世界をいい方へ持っていく役割を担っていたのではないかと感じた。
母(ジョンの魂より)
母上、私は貴女の子供でした。
貴女は私の母ではなかったけれど。
貴女が欲しかった。
貴女は私を欲しなかった。
だから私は、私は貴女に伝えます。
さようなら。
さようなら。
父上、貴方は私を捨てました。
私は貴方を捨てたことはない。
貴方が必要でした。
貴方は私を必要とはしなかったけれど。
だから私は、私は貴方に伝えます。
さようなら。
さようなら。
子供たち、俺のように生きるなよ。
俺は歩けなかった、そして、走ろうと努力した。
だから、俺は、俺は君たちの前から去ろう。
さようなら。
さようなら。
お母さん、行かないで。
お父さん、帰ってきて。
鏡(アンドレイタルコフスキー)
初見
途中寝た。
とても面白かった。
なぜ観れるのか。
もう一度観たい。
最後まで静か。
心の動きがよくわかる。
音楽は無い方が映画にとってはいい。
音楽は下手につけると、観る人にこう観なくてはいけないという考えの押し付けになってしまう。そう削りきったこの映画を観て思った。
東京物語
前ほど涙は出なかった。
おばあちゃんと一緒に観たからかな。
でも、昔の風景を見ておばあちゃんが嬉しそうで良かった。
でも多分おばあちゃんは主役の二人より、どちらかと言うと二人の子供たちの側くらいの年齢と気持ちなんだ。
だから、長女の人の歯に衣着せない物言いにわらってたし、この人は田舎臭い、原節子の方が都会の人らしい。と言っていたのが印象的だった。
でも原節子の気持ちと、田舎から来たお母さんとのやりとりが一番感動したのは前と同じだ。
お母さん、丸くてかわいい、優しい笑顔、いつもキョトンとしているけど、人生を生きてきたから色々考えてる。少し寂しそう。
お父さんとお母さんが東京に遊びにくるだけなのに、昔はすごく大変で子供たちも忙しい中で気を遣って色々考えるけど、どうしても一つになれない。お母さんはきっとみんなで一緒に暮らしたかったろうな。地元の家で。どれだけ成功しても満足できない人間の哀しさ。本当の幸福は心の平穏の中にしか無い。
神々の深き欲望(感想)
人間なんてこんな奴らだ。文明の化けの皮剥げば、所詮はクソ野郎どもさ。って感じを受けた。
現代の映画が好きな人たちは大好きかもね、みんな人間のことを信じてないし、自分が人間であることも忘れてるから。あ、でもだからこそ嫌いか、自分の嫌なところを見せられてるみたいな映画だから。
悲しくて胸糞悪くて、笑える映画だった。
でも日本映画って昔から映画ではないのかもしれない。「復活の日」もそうだったけど何というか映画を見ている感じがしない。日本映画を見ているという感じがした。日本人の生真面目な性格が出ているからなのか、クセが強い。それはいい意味でだけど。
なんというか日本の昔の映画はシーン毎にしっかりと分けられているという感じ、ヨーロッパ映画は流れるように一つの映画になってる。日本映画はそれがない、きっとスケールがデカくて、そのスケール感を出す方法がシーンを壮大にすることだからかな、ヨーロッパは話のスケールがもともと宗教とか神とかだから会話のスケールがでかい。「神々の深き欲望」は土着的で、会話のスケールは小さいけどワンシーンワンシーンは意味不明でスケールがデカい。でももしかしたら、そのスケール感を出そうとしてる感じが、日本はまだやりきれてないのかも、ヨーロッパ映画は全編を通して印象の筋が通ってるけど、日本は何というか、それがない。黒澤明はそれがあるけど。
小津安二郎も、それがある。つまり日本には昔巨匠と呼ばれるような人がいたということかな、今村昌平や深作欣二はそれには及ばなかったということかな。
多分そうだ。
でもすごいなと思ったのはすごく暗いテーマで、かなりエグい話なのに、笑えた、それは普通の事のように話されているのと同じ事だった。
当たり前のことのように描かれているということが一層、真実を物語の中に含んでいることの証明だと思った。
しかし、今村昌平は相当人間が嫌いだったんだろう。それは不良の感覚だ、今の俺の感覚か昔の感覚に近い気がした。最後の方のシーンでは「全員死ね!」と奥底から聞こえてきた。全人類抹殺計画。これはすごく面白い映画だけど、俺がワクワクするのはやっぱりイングマールベルイマンかな。
5月28日2020年
魔術師
監督:イングマールベルイマン 主演:マックスフォンシドー
イングマールベルイマンを5本ほど続けてみた。
最初に「夏の遊び」でベルイマンって面白いなってなり、次に「処女の泉」でベルイマンってすごいなっていうのがさらに膨らみ、「魔術師」でこういうのも作るのかってなり、「冬の光」でやっぱりすごいなってなり、最後に「野いちご」で、ん?ってなった。
ベルイマンは神の沈黙をテーマにしているとかよくいうけど、全然違うと思う。ベルイマンは神が本当にいるのか、それを知りたかったんだ。それを表現の中で追求していったんだと思う。
だから、魔術師という作品の中で、普通のマジシャンの敗北によって神が負けた、ベルイマンは神を信じていないなんて思ったらそれこそベルイマンに失礼だ。
そもそもこの作品の中で神と科学は戦っていない、この作品の中の魔術師は単なるマジシャンだ。この作品の中で大切なのは魔術師もべつに神の奇跡などはなから起こそうとしてはいないというところであり、それに対して科学を信じているという警察の人たちはまんまとその魔術に引っかかってしまうところにある。
そして魔術師は色々な地に足のついた事件を起こして騙すが、種を暴かれ、もう終わりだとなった時に、国王に呼ばれてこの世的に成功し、突然立場が逆転する。彼らがさった後の道には一抹の虚しさが漂う。
ベルイマンの映画に出てくる人間はみんな正直もので、嘘をつかず、相手に容赦しない。ベルイマンの描く悪い人というのは人間の原罪、3大欲求、を悪気なく持ち、ふりかざす。それは神を知らなかったり、科学を信じていたりするから、今ではごくごく普通の人達だ。
そしてこの映画の中の魔術師もみんなと同じ生業としての魔術師なのだ。それは不思議な力という、神や、神聖な存在を抜きにしては語ることのできない力を飯の種として生きている人間達であり、神父と同じようなものとして描かれていると思われる。ここには冬の光と同じ構図が伺える、神を信じていない人間がこういう力を扱うことの愚かさがある。
ベルイマンは神を信じていたか、ということに対して誰も答えを出すことはできないだろう(すでに亡くなっているから)。だが、あえて僕は信じていたのではないかと言いたい。信じているからこそ、ここまで神がいるのかどうかということについて考え続け、表現し続けることができたとしか思えない。それは表現することの難しさや、大変さをすこしでも知っていなければわからないことかもしれない。ここまでの情熱をかけて人生をかけて、神を追求する、命をかけてそういう表現をするということ自体が、神を信じている人間しかできないことだと思うからだ。
冬の光と愛のむきだし
監督:イングマール・ベルイマン 主演:グンナール・ビョルンストランド
神を信じていない人間が神の代弁者になることの罪とそれによって起きる悲劇。
それを最後まで描き切った。
園子温の愛のむき出しは表面だけ浅いパクり方をして、逆に監督が自らこの映画の主人公と同じことをしている。(意図的なのか、この映画の本質を捉えられなかったからなのかは不明)
この作品は神のことを真摯に追求し続けていたベルイマンだから描くことが許されているようなもので、一貫して神のことを知りたい、神とはなんなのか、神の全てを知りたい、神と人間の本当の関係を知りたい、それを表現で真実にたどり着きたい、という欲求を常に作品の中のテーマとして描き続けてきたベルイマンほどの情熱や欲求がない人間が真似をすると愛のむき出しになる。
その構図はわかりやすくこの冬の光のテーマを浮き彫りにしている。
なぜなら主人公の神父は神に対して懐疑的な態度で臨んでいて、その神に対して信じないという結論に至っているのにもかかわらず、救いを欲していたジョナスに対して人生の師として経験を語るという態度を取ってしまったが故に彼は絶望感を増幅させ自殺するという悲劇が起きたと思う。彼がしっかりと神と向き合う神父であったならジョナスは自殺しなかったであろう。
愛のむき出しは園子温が全く神について向き合っている人間ではないにもかかわらず神について騙る映画になっている。しかも明らかに話のモチーフには冬の光がある。これは映画史に残る皮肉な結果だ。なぜならこの映画をモチーフとして作っているつもりになっている園子温は、冬の光の本当のテーマは、神を間違って認識し、それを間違ったまま騙ることによって起きてしまった悲劇である。そこに気づかず、表面的な神に対する不信心だけを捉え真似した気になっているというところで完全に監督そのものがこの映画のモチーフそのものになってしまったのであると思う。
だが、それは園子温監督だけが犯してしまっている間違いではなく、この世の中、今の映画業界、映画を見る人たち、すべての人が間違えて認識してしまっていることではないだろうか。
イングマールベルイマンの映画は神が本当に存在するのかというテーマを常に掲げているが、その懐疑の中には善悪の倫理の前提として、神を信じているかいないかと言うことが常に問いかけられている。神を信じていない現代人には到底理解の及ばない深みがあるのだ。道徳とは神を信じている人間が初めて手に入れることのできるもので、神を信じない人間はいくら道徳を説いたところで説得力などかけらほどもない、ということをベルイマンは教えてくれた。